「人の期待値を超える」について

なぜこの記事を書こうと思ったのか

これからの行動を考えるうちに、自分の仕事をする原点である考え方について振り返りが必要だなと感じたので、この記事を書きました。その考え方で仕事を実施した結果も書きますが、同じくらい「なぜ」の部分の比重も高いと考えているので、そちらについても後ほど触れて記録に残していこうと思います。

「人の期待値を超える」とはどういうことか。

文字通りの意味ではあるんですが、「人からなにか期待をされたとき、Noと言わず、まずはやってみてあらゆる手を尽くして、期待を超えようと努力すること」を指します。

 

直近、1年半の仕事の目標でもありました。

なぜ「人の期待値を超える」なのか?

2年前まで業務委託として参画していた企業で、仕事上、嘘をついて、契約終了になってしまったから、そんな自分を変えたく改善のためになります。自分のせいで、損失も与えてしまいました。

人の期待に応えられなかった1社目

最初に1年以上働いたのは23歳の時でした。所属していた企業は、社員が10名以下のweb広告/制作企業で代表が25歳(当時)、平均年齢も26歳と非常に若い組織でした。

 

参画のきっかけは2歳年上の先輩に誘われたからでした。当時の自分はコロナ禍で大学もオンラインになり、暇を持て余していたので2つ返事で手伝わせてください!と話し、その時は飲んでいたのですが、そのままオフィスにいって、代表面接→OKで参画となりました。

 

最初はバイトのつもりでした。大学も通いながら、空き時間で営業の仕事ができたらいい。その程度でした。それが結果的には、自分は大学を休学すること意思決定して、1年半ほど参画していました。「社員のように働かせてほしい」と宣言したほど、熱量高く取り組んでいました。その変化のきっかけは正直覚えていません。今振り返ると、代表/先輩からの期待があったから、かもしれません。

 

参画直後は営業をしたい気持ちはあったが、実務未経験だったこともあり、テレアポから任せてもらえることになりました。マニュアル等もない中で、手探りでは有りましたが、単月30アポを2ヶ月安定して獲得できるようになりました。途中からは別のインターンも入る事になり、チームで成果を出していました。

 

同時に会社も次の挑戦として、新たな事業を立ち上げる事になりました。受託開発事業です。手持ちの業務は、受託開発事業の営業/のディレクションです。2歳年上の先輩とマンツーマンで一つの事業を立ち上げる事になりました。

 

営業→ディレクションを自分が一貫して行うのですが、当時は事業の立ち上げ直後ということもあり、マニュアルもなくほぼ全て0ベースで作り上げる必要がありました。営業期間の成長曲線は、ビギナーズラックで初月で150万、2ヶ月目に130万売り上げた後、3ヶ月ほど0が続きました。途中から別の社員も入り、改善を加えることで、結果的に単月500万ほどの売上、粗利ベースで300万ほどの結果がでました。

 

問題は、ディレクションでした。受注時に取り決めたスケジュール上、物事を進められませんでした。要因は自分の弱さでした。認識の齟齬を起こさないようにメモに残す、期日までに遅れそうなら事前に相談する、わからないことはすぐに聞く、社会人としてはごく当たり前なことが全くできませんでした。

 

なぜ、そんなことが起きるか。それは「素直になれなかったから」でした。今考えると恥ずかしいのですが、当時は自分の事を天才だと勘違いをしていました。

自分のことを天才だと勘違いしていた過去

少し話はそれますが、自分の過去を話すと、自分は大学を21歳の年に入っています。なぜ少し間があるかというと、18歳で高卒で1年半ほど働いた後、20歳の代で1年間受験勉強し、大学に入学しているからです。

 

大学への入学を志望した理由は、東京へ行きたい気持ちを裏付けるために口実としてでっちあげたものでした。どういうことかでいうと、高卒で働いていた当時、漠然と「このままでいいのか・・・?」と考えていたからです。実家から自転車で通える範囲に有り、名前も通っていて、資本力もあり安定性があるという理由で地元の中堅企業で働いていました。なにか努力していたといえばグループ企業の海外拠点で仕事をするべく、英語を身につけるためにTOEICの勉強をしていたぐらいでした。

 

そんな中、仕事の昼休みに「高卒と大卒の年収の差は〇〇万円!?」という記事を見て、その差に愕然しました。具体的な金額の差分は覚えていませんが、確か数千万円ほどだったと思います。これまで抱いていた漠然とした不安が裏付けされた気持ちでした。危機感から、なにか行動をせねば、と考え出したのが、東京へ行く。でした。今考えるとなんと浅はかで根拠のない判断かと反省しますが、東京へ行けばなにかチャンスがあるのではないか?と考えていました。

 

ただ、東京へ行くったって何をするのか?その答えは自分には有りませんでした。当時18歳になったばかりでした。今の年齢なら大学に行っても遅くないのではないか?そう思いました。そうすれば周りからも反対されず、東京に行けるのではないか?そう思いました。

 

情報収集を始め、それとほぼ同時に友人にも友人・両親・祖父母に相談をしました。相談と言いながら、自分の意思決定を裏付ける材料を探していたに過ぎないかも知れません。反対もされたと思いますが、反対意見を思い出しても父親から強く反対されたことしか思い出せんません。人の意見を都合よく解釈をしていたと思います。理由は仕事を嫌になったからではないか?と考えていたからです。結果的には、ほとんど反対を押し切る形で行く決断をしました。当時の自分には、ビジョンを言語化して人に伝える力もなく、その努力も怠っていました。

 

その意思決定の1週間後には、退職の話を上司に話しました。3ヶ月ほどの猶予をもたせ、お世話になった先輩→上司→その上の上司→その上の上司という順番で面談を済ませ、退職の話を済ませました。自分なりの義理を通したつもりでいましたが、一番お世話になった上司から突然だな、、という反応を受け、根回しの重要性を学びました。3ヶ月ほどで引き継ぎを済ませ、退職しました。

 

幸い貯金もあり、1年間予備校へ通う、入学金を払うほどは貯まっていました。出身高校は偏差値50も満たないほどの工業系の専門高校でした。授業の3分の1が自動車エンジンに関わる授業だったため、英語の文型も全くわからない状態からの受験勉強でした。電車で50分乗った先にある予備校に通うことになりました。

 

受験期間中の周囲の反応は冷ややかでした。祖父・親戚には目標が高すぎて無理じゃないかと話していたり、一番印象に残っているのは、電車でたまたま再開した知人に、会社を退職して受験していると話すと、鼻で笑いながら遅くね?笑と言われたことです。最初は東京に行くために頑張っていたことがいつのまにか周囲を見返すための手段として受験を使うようになりました。

 

結果的には、偏差値65程度の私大文系の大学に入学しました。結果的に周囲は自分を称賛しました。その結果もあってか、完全に天狗になってしまいました。自分にできないことはない。本気でそう考えてました。今思うと勘違いはここが原因でした。

これからについて

過去ばかりを考えるのはこの記事を持って終わりにしたいと思います。これからは自分の未来を考え、行動し、結果を出し、世の中に貢献できるような人間になっていこうと思います。

振り返ってみて

記事を書き始めたときはもう少し短く終わるだろうと思っていたんですが、思ったよりも長くなりました。また、副産物として、自分の細かな意思決定の癖もわかるようになりました。やはり、頭でうんうん考えることも時には必要ですが、行動することが一番学びがありますね。